ドイツから学ぼう(363)ドイツから学ぶ未来(6)戦後の障害者福祉・終活を考える前編

終活を考える 前編

 

私の忌み嫌う言葉に、人生の終わりを閉じるにあたって一連の備える活動を意味する終活がある。
しかし先日から左腰がこれまで経験したことのない痛みがあり、風邪やインフルエンザには抗生物質を出さないと謳っている、最低限の薬しか出さないクリニックを受診したところ、問診の後筋肉痛だろうということで副作用のないアセトアミノフェン原末の頓服を出してくれた。
夜床に着くと、堪えれない痛みがするため頓服を服用した。
しかし全く痛みが治まらないため、いよいよ来るべきものがやって来たと、朝まで痛みを堪えるなかでネガティブに思案していた。
何故なら非ステロイド系鎮痛薬が全く効かないのは、父や母の経験から癌細胞が骨→神経細胞を侵していると連想したからである。
朝起きる頃にはネガティブな思案も、ようやくポジティブな考えとなり、来るべきものがまだ気力のある72歳の時点に訪れたことを良しと捉え、家財はそのままとしても、書き残すべきものだけは書いて置きたいと決意した。
母の在宅での最期が強い非ステロイド鎮痛薬ロキソニンが全く効かなくなり、モルヒネの張り薬で痛みが緩和されたことから、それに頼ろうと思った。
もっとモルヒネ使用で終末が訪れるのは数か月であったので、10数年若い私の場合癌細胞の増殖も速いことから、1か月を限度としないと覚悟して起床した。
起床後鏡で左腰を見るためパンツだけになると、左腿に小さな赤い発疹が出ていることに気が付き、ヘルペスウイルスによる帯状疱疹ではないかと思った。
実際夜には赤い発疹が拡がり、左腰にも出てきたことから帯状疱疹であることを確信した。
父や母も癌が発見される数年前に帯状疱疹を患い、病院に1か月以上も入院して治癒した当時が蘇って来た。
病院の入院は決して楽ではなく、その症状は治癒しても逆に病気にさせられるという強迫観念に近い思いがあったから、自宅での療養を決意した。
何故なら病院では院内感染はないとしても、早朝から夜に至るまで検査、検査で追いまくられ、従来の自分のバイオリズムが崩され、私のような薬嫌いの人間には耐えられないことであり、そのうえ立場の弱い看護婦さんを通して絶対服従が病院では求められるからだ。
私が薬嫌いなのは、自分自身が製薬会社の研究室で数十年前ドラックデザインしていたからであり、薬は毒を持って毒を制するであり、症状を緩和しコントロールするだけで、本質的に疾患を治すものはないと思っているからである。
しかも研究室でのドラックデザインのやり方は、癌細胞やウィルス、もしくは疾患部を鍵穴と見立てて、特許のとれる基幹化合物に鍵となる、例えばスルホンアミド基を付けるといったものであり、効能を増強することが目的で慢性毒性や遺伝子変異は眼中になく、副作用や薬害にも開発段階で殆ど見向きもされないからである。
もっとも病院にも行かず、薬も飲まず自宅で治そうというやり方は誰にでも薦めれるものではない。
中途半端で自宅で治療しても、痛みに耐えられず、買い薬に頼るというのでは返って危険であろう。
私自身はあくまでも自己責任で、帯状疱疹では痛みはあっても薬に依存することなく(痛みは温める湿布で緩和)、自宅で治した方がよいと確信しているからである。
もっとも発疹が出てから10日ほどであり、赤い発疹は少しずつ紫ずみ、かさぶたになりつつあり、治癒に向かいつつあると思っている。
もっとも依然として痛みが続き、決して治ったわけでないことから、次回はその報告もしたいと思っている。

戦後日本の障害者福祉 前編

私の見た動画58前編では、NHKが2016年に放送した戦後証言『日本人は何をめざしてきたのか 第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて』を通して、脳性まひの横田弘さんに焦点をあて考えて見た。
日本の障害者福祉は特効薬で治癒したハンセン病者同様に、社会のお荷物となる重傷障害者が戦後も社会から隔離され、その政策で障害者の人たち自ら語るように、家庭の座敷牢に繋がれていたと言っても過言ではないだろう。
事実厚生省に重症障害者福祉を陳情した北浦雅子(94歳)さんは、厚生省の役人が「社会に役に立たない者には、国のお金は使えません」と、弱者切り捨てが公然と言い放たれていたことを証言されている。
北浦さんたちの働きもあって政府はようやく重い腰を上げ、欧米では当り前となっていた集団施設コロニー建設に着手するが、それは社会からの集団的隔離に他ならなかった。
「ぼくは空の広さを知らない」で始まる「四角い窓」の詩を書いた横田弘さんは、詩の終わりで「四角い窓が深くかすめば春が来たと喜び、深く清めば秋が来たと悲しむ。そんなぼくを人々は片給者と呼ぶのだ」と訴えている。
その横田さんが自らが障害者と意識したのは、学校であったと述べている。
すなわち昨日まで一緒に遊んでいた子供たちが登校していくのに、行けなかった思いを吐露している。
それは横田さんの差別への戦いの始まりであり、至るところで障害者を締め出し、隔離している社会との戦いであったように思われる。
それ故1974年に公開された映画『さようならCP(脳性まひ)』では、自ら出演し、死にもの狂いで横断歩道を這って渡り、健常者の哀れみと同情がつくりだした愛と正義の否定を掲げたのであった。
何故なら障害者を締め出している社会は、哀れみから重症障害児を殺した親に同情的で、「悲劇の親に無罪」という新聞見出しが駆け回っていたからだ。
横田さんは言う、「殺された子供は僕だった。これは黙っているわけにはいかない。子供を殺した親がかわいそうならば、殺された子供の命はいったいどうなるのだろう。このままほっておいたら、いつ自分たちが殺されてもおかしくないでしょ。冗談じゃないよ」と怒りを持って問い正している。
そして「障害てわるいの?障害者が生まれちゃいけないの?障害って何なの?障害者て悪いのていう問いかけだよ。障害者のまま生きてたっていいじゃないの」と切々と訴えている。
その訴えには、既に欧米では定着し始めたノーマライゼーションを求める叫びがほとぼり出している。
しかし日本社会はそのような訴えを理解することなく、無情にも障害者のバスに乗って外に出て行くことを無視したのであった。

マルクス・ガブリエル倫理トーク(11)出生前検査

ドイツは2013年以来簡単な血液検査で、ダウン症などの遺伝子異常を調べる出生前検査を実施している。
開始にあたっては20年以上の国民議論を経て、妊婦に宿った子どもの生きる権利と障害のある可能性のある子どもを宿した女性の決断する権利を尊重することが求められている。
それは相反する権利の葛藤であり、検査での陽性結果の出た妊婦の苦しみは想像を絶するものがあることから、何処で暮らしていても相談できるようドイツ全土で1500か所を超える妊娠葛藤相談所が設けられている(クローズアップ現代『新型出生前検査 導入から一年~』参照)。
そこでは専門カウンセラーが葛藤する妊婦が、納得して決断が出来るまで何度でも無料でカウンセリングできる仕組みがつくられている。
またダウン症などの障害のある子ども出産に対しては、家庭への助成金や税軽減措置で十分な経済負担配慮がなされている。
そのように配慮されたドイツの出生前検査であるにもかかわらず、ガブリエルは検査で好む(正常)遺伝子と、好まれない(異常)遺伝子に区分けすること自体問題であると切り出している。
何故ならそのような検査は、予め社会から重大犯罪者を選び出すようなものだからであり、障害を持って宿った子どもの命に備えるべきでないと主張している。
そこには障害の子どもを好まないものとして区分けすれば、老齢者などの社会にとって負担になるものへと波及して行くだけでなく、なし崩し的に優勢思想の復活が垣間見られ、そのような検査は倫理的に許されないとするガブリエルの強い意志が感じられた。
もっとも障害のある子どもや家庭への十分な経済支援、及び障害者が自立して暮らせるノーマライゼーションの基盤が整っているドイツであるからこそ言えることだと思う。
日本のように障害者への経済支援が余りにも不十分で、表向きは障害者のノーマライゼーションを掲げているが殆ど基盤が整備されていない日本では、とてもガブリエルのような主張はできないだろう。
すなわち現在の日本では障害のある子どもを育てることは、並大抵の労苦であることから育てる側の判断で中絶もやむ得ないだろう。
また少しでも障害のある子どもを産む可能性のある妊婦には出生前検査を保険適用とし、陽性である場合妊婦の納得行く十分なカウンセリングを無料で実施することは福祉行政の責務であると思う。
そして将来的にはガブリエルの主張するように、障害を持って宿った子どもの命をより尊重し、出生前検査は廃止すべきである。
もちろん障害のある子どもへの十分な経済的支援だけでなく、障害のある子どもが健常者と分け隔てなく生きていけるノーマライゼーションの基盤が、十分整備されなくてはならない。
そのような財源は、核弾頭ミサイルに対抗するイージス基地の建設を止めれば調達可能であり、ドイツのように福祉基盤を整えるだけでなく、教育の無料化、さらには憲法で保証された暮らしができていない困窮家庭も解消できる筈である。
すなわち日本は憲法に違反するような集団自衛権行使の積極的平和(力による平和)を掲げるから、イージス基地など益々軍備増強が果てしなく必要となるのであって、平和外交を優先すれば、ドイツのように軍事費は当然縮減されよう。