ドイツから学ぼう(361)ドイツから学ぶ未来(4)ドイツから見た戦後の日本教育・マルクス・ガブリエルの倫理トーク7ヘイトスピーチ、8不公正な報酬

ドイツから見た戦後の日本教育 前編

 

2016年1月に放送された公共放送NHKの戦後史証言・日本人は何を目指してきたのか、「未来への選択・第5回教育」は理想を目指した国民のための教育が、戦前のように国家のための教育へ変節されていくさまを描いていた。
私の見た動画57『ドイツから見た戦後の日本教育』前編では、既に50年代初めには理想を目指した国民のための教育が国家のための教育への回帰が求められ、50年代末には180度転換されたことに焦点を絞って見た。
私が生まれた1947年に教育基本法が制定され、教育の目的は「人格の完成」であり、「個人の価値を尊ぶ」という戦前にはなかった理念が詠われていたことを、番組では述べている。
また番組のなかで、当時文部省教科書局の学習指導要領作成にあたった上田薫さん(95歳)の証言では、「拘束力をもつのではなく、自由に使ってよいという考え方だった」と、キッパリ断言されていた。
実際の学習指導要領では、「これまでの教育では、その内容を中央で決め、それをどんなところでも、どんな児童にもあてはめて行こうとした。・・型のとおりにやるのなら教師は機械にすぎない。・・児童青年のその地域における生活の特性によって、地域的に異なるべきものである。」としっかり書かれていたことを、確信をもって述べられている。
また、「日本人がああいう困った事態の中で頑張ろうという気持ちを持ったことは、私もずっと長い間生きているけどもあの時が一番強かった。その意味では非常に乏しい時代だけれど人間の強さがあって、それが教育に全部向かっていったところがよかった」と、生き生きと述べていた。
具体的に中心となって指導した太田貴さん(98歳)は、当時を回想して厚く語り、「今度は我々ピープルが教育を作らなくちゃいけないんだ。・・教育とは公共のものであり・・民主主義の根本原理ですから、これをしっかり定着させなきゃならない」、そして「子どもが自己表現をして自分を育ていくという根源的な自発性があるはずで、そこを大事にする。一人一人がの人間が持つ自らを変えて行く力、根源的な自発性、そういうものが軸なのだ」と厚く語る太田さんの情熱には頭が下がる思いがした。
そして番組で解説されているように、各地で子供たちが自ら相談して心にかない、主体性をのばす教育が、教師たちの創意工夫の授業で始まって行った。
私自身その教育を受けた者として、二度と戦争を起こしてはならないという教師の苦い体験を通しての授業での叫びが、時々今も聞こえて来るほど、素晴らしかったように感じている。
しかしそのような戦後の民主主義の理想教育も日本が1951年独立を回復すると、朝鮮戦争で活気づき戦後政府を追われた人たちが復帰して来ると、日本の実状にあった教育、すなわち戦前の国益優先の教育が求められて行った。
1956年には理想教育の担い手であった地域の教育委員が国会の強行採決で地域の市民から取り上げられ、政府の任命制に変えられることで推進力を失うだけでなく、戦前の国家のための教育に引き戻されて行ったと言えるだろう。
事実1958年に改正された学習指導要領は法的拘束力を持ち、全国どこの地区でも、どこの学校でも、どの先生になっても均質で同質の教育が為されることを強制し、国民のための教育は180度転換されたと言っても過言でないだろう。
そして1960年代には産業界の要請を受けエリート養成が求められ、能力主義の徹底が計られて行ったのである。
これに対して戦後のドイツの教育は対照的である。
戦後ナチズム関与したハイデッガーのような世界的学者、並びに多くの教員が大学から追放された後は、自由なワイマール時代の回帰もあり、少数エリートを育成するギムナジウム制度の復活で戦前の教育から中々脱却できなかった。
しかし日本でエリート養成が求められる60年代初めに、ようやく教育の民主化と平等化への教育改革が実践されて行った。
そこでは、教育の目標が競争や選抜のためではなく、個人が市民社会に生きていく生活の質を高め、連帯してよりよい平等社会を築くためであることが大きく掲げられ、徐々に浸透し徹底されて行った。
このようなドイツの民主化と平等化の教育改革は、まさに根源的自発性を喚起する戦後の理想を目指した日本の民主教育に重なるものである。 
そのようなドイツの教育改革の教育理念は、60年代の教育改革のリーダー的存在であったヘルムート・ベッカー教授の「子供の自主性を尊重し、競争より連帯を育む教育」として、日本の教育関係者にも幅広く知られている。
具体的には地域独自の教育が、生徒の自主性を尊重する事実授業(体験学習)を通して為され、しかもグループ学習などを通してレベルの高い生徒がレベルの低い生徒に教えることで格差を小さくし、連帯して学び合うことが実践されて行った。
しかも連帯を求めるドイツの教育改革では、単に小学校から大学の授業料を無料にするだけでなく、進学が親の教育水準や経済状態に左右されることまで波及して行った。
すなわち親の教養などによって子供に格差が生じないように、難しいラテン語ゲーテなどの文章が授業から削られ、平明な言語教育をすることに配慮がなされた。
また親の経済状態に依存しないように、71年に奨学金制度(Bafog)を成立させ、母子家庭でさえ教育の障害にならないよう改革して行った。
事実シュレーダー元首相や、ヴォーヴェライト元ベルリン市長(2001~2014年の3期)が貧しい母子家庭であったことはドイツ市民の誰もが知ることであり、シュレーダーは司法官試験に合格し首相にまで上り詰めているし、ヴォーヴェライトは大学院での研究を経て学者となり、さらにベルリン市長となり、全身全霊で市民に奉仕したことで今も市民に愛されている。
こうした事実は、ドイツでは教育が必ずしも親の経済状態に依存しないことを物語っている。
さらに戦前のエリート教育が遅まきではあるとしても、厳しく批判されて行ったドイツの教育では、大学間に格差を生じないように大学自身も様々な工夫が為されて行った。
たとえば若い学者が末席の教授に昇格する際は、師事した教授のいる大学への就任を禁じ、昇格する時は必ず他大学へ移らなければならないことが法律で規定された。
また大学の予算にしても同様であり、人材や財源で格差をつくらないことが徹底されて行った。
次回の後編では、日本の教育がエリート養成のために落ちこぼれや校内暴力を生み出して行き、現在の格差拡大社会で教育が階層化されている実状をフィルムで見て行くと共に、ドイツの教育が競争原理優先の新自由主義に飲み込まれて行く中で、どのように克服しようとしているかを展望したい。

マルクス・ガブリエルの倫理トーク・(7)ヘイトスピーチ

ヘイトスピーチの憎悪に対して、ガブリエルは「愛情と理解」で戦うことだと断言する。
私自身は、ジャーナリストの女史のいうように、最初彼が愛情と理解での対話を信じるオプチミストと感じた。
しかし2015年公共放送NHKクローズアップ現代「ヘイトスピーチを問う」で焦点があてられ、翌年には法制化でヘイトスピーチ解消法が施行されたにもかかわらず、益々拡大拡散する有様を動画で見ると(ここでは解消法の曖昧さと、罰則規定がないことが指摘されているが)、本質的な問題が解決されないかぎり、罰則規定が盛り込まれたとしてもその隙間をついて鼬ごっこが繰り返され、結局は益々拡大拡散して行くように思える。
私の視点からすれば、ヘイトスピーチを為している大部分の人は競争原理を最優先する社会の落ちこぼれであり、自分より弱い立場の人にはけ口を見つけているように思う。
それ故に、ガブリエルの断言するように「愛情と理解」での対話が必要なのだろう。
そして本質的にヘイトスピーチを解決するには、競争原理が最優先され自己責任を問う社会を、助け合いで連帯を求める社会に変えて行かなくてはならないだろう。

マルクス・ガブリエルの倫理トーク・(8)不公正な報酬<

この倫理トークでは、教育者の時間給が9ユーロであるのに対して、世界的サッカープロ選手が100万ユーロであることが問われている。
現在の社会は、利潤貢献に応じて報酬が配分されており、その視点からすれば公正な社会という見方もできるだろう。
しかし現在の社会は、利潤の質を問うことなしに人間の欲望を増幅させており、その結果としての利潤貢献の報酬という見方もできよう。
しかも利潤は為された仕事よりも資本投資が圧倒的に大きい社会では、一握りの富裕層に収束していくのが現状であり、社会に貢献している人たちさえ貧困化が進んでいる。
戦後の日本は富の再配分が機能し、70年代には老人医療が無料化で福祉国家と言われるほどであった。
しかし競争原理を最優先する社会への転換で、高所得者や高収入巨大企業は投資を促す理由で絶えず減税が断行されており、貧困の階層化が激化し、殆ど富の再配分が機能していないと言っても過言ではない。
『21世紀の資本』を世に出したピケティが揶揄するように、アメリカの最高裁が政治献金表現の自由として認める世界では、そのままでは未来に富の再配分が公正に機能することを期待できないだろう。
すなわち公正に報酬が配分される社会は、ガブリエルがラストで暗示するように、自動的には到来しないだろう。
尚ガブリエルは朝日新聞のインタビューで、「・・今はどんな政治問題も一国だけのレベルでなく世界の問題だ。、気候変動も不平等も。扉の向こうにあるのは不平等解消のあるべき姿だ」と述べ、 全員に最低でもそれなりの額の収入を与えるベーシックインカム(最低所得保障)に加え、「マキシマムインカム(収入の上限)」が必要だと説いている。
具体的には、「金をいくら稼いでも個人の楽しみは限られている。例えば月額50万ユーロ(約6000万円)を上限にする。共産主義になれというのではない。資本主義下でできる話です。国レベルでも世界レベルでも今の不平等は過去最悪。今の民主主義の危機もポピュリズム権威主義も全て、不平等の問題からきている。扉の向こうにあるのは、それを乗り越えた新たな社会モデルだ」と述べている。