(395)“救済なき世界”をそれでも生きる(17)・ベックのリスク社会(1)・コロナ危機到来の日本を考える(4)現在の危機を克服する唯一の術

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上に載せた動画は2009年5月30日にスイスの主要メディア新チューリヒ新聞(NZZ)が放映した番組で、リスク社会の発案者であり、世界的権威であるウルリッヒ・ベックが質問に答えて、わかり易くリスク社会を述べた貴重なフィルムである。

ベックは2015年1月1日心筋梗塞で70歳で急死したことから、フィルムを世に出すことをメディアの使命と感じたかは定かでないが、NZZが2016年に世界に公開したフイルムである。

この番組の冒頭でも述べられているが、2009年の放送時は豚インフルエンザが世界を襲い、一時的に脅威のパンデミック襲来と世界を震撼させた直後である。

何故なら、2003年のコウモリ由来のサーズコロナウィルス襲来以来ドイツやスイスでは、動物由来のウイルス感染症パンデミックが警戒されていたからであり、当時ベルリンに暮らしていた私自身も、日々の豚インフルエンザ報道の異常さには驚いたものである。

先ずこの番組でなされたのは、NZZ質問者の「現代はリスク増大に反して死者数は減っている」という指摘に、ベックは「量的大きさではなく、リスク概念を見るべきだ」と主張している。

そしてリスク概念については、「それは人を引付けるもので、崩壊ではなく、言わばその際生じ死者数ではなく、リスクが本質的に知らない未来を語り、未来の予見を求めるものでなくてはならない」と述べている。

またリスク段階を3段階に分け、第一段階はリスクが自然や神々によって決められていた時代で、その原因は人に属していないとしている。

第2段階は近代であり、産業社会がリスクを造り出しており、その原因は人にあるとしている。

そして第3段階は最先端の現代であり、リスク予見は正確に把握できないと述べている。

「それではリスク概念は未来の懸念に過ぎないのではないか」という質問者の指摘に対して、「未来の懸念ではなく備えである」と明言している。

そして今回の最後では、大きなリスクは経済と技術の進歩と平和維持(抑止力としての核武装や平和を守る軍備拡張)から生じており、福祉国家格差是正)で法治国家(民主主義の法順守)を基盤とするヨーロッパの国では、二つの基盤がリスクを回避を提供してきたと述べている。しかしそのような基盤のない韓国、日本、中国は、リスクが高いと警鐘している。

実際この約2年後日本で福島原発事故が起きると、ベックはメルケルの招集した倫理委員会の中心メンバーとして働き、ドイツの脱原発を実現させている。

日本は法治国家であり、富の再配分で生活保護を実施して福祉国家に近いと思われる人もあるかもしれないが、ドイツから見れば経済至上主義で、憲法の重要な法は理念にしか過ぎず、格差拡大を容認する国である。

それ故福島原発事故の際日本の報道を全く信用せず、炉心爆発のリスクを予見して、東京の大使館職員などをすぐさま関西へ避難させたのであった。

 

コロナ危機到来の日本を考える(4)現在の危機を克服する唯一の術

日本が如何に建前だけの官僚支配の国であるかは、報道に関わる者なら明らかである。

2020年の世界報道自由度ランキングでは66位で、右派政権が議会多数決独裁で民主的憲法裁判所と公共放送を公然と政府支配し、多くのジャーナリストが独裁国家と呼ぶポーランドさえ62位であり、64位アルゼンチン、65位ギリシャに次いでおり、報道の自由度が著しく低く、とても民主国家とは言えない。

何故そのように報道の自由度が低いかは、長年外国記者団が指摘してきたように他の国には例がない報道の仕組み、「記者クラブ」があり、原則的に外国記者団やフリージャーナリスト、政府報道をそのまま代弁しないメディアが排除されるからである。

日本歴20年以上の「ニューヨークタイムズ」東京支局長マーティン・ファクラーが、自らの福島原発事故事故直後の現地取材を通して、世に出した『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書 2012年)では、現場の悪しき実態を情報寡占組織と指摘して「記者クラブ」を抉り出している。

筆者は「記者クラブ」を“官僚制度の番犬”だと書き、そのようにさせている仕組は明治政府誕生以来続くものだと述べている。

すなわち「記者クラブ」創設は1890年で、明治政府の支配の道具としてつくられ、「“権力の犬”であることが、明治以来の伝統的な日本のジャーナリズムの姿なのである」と厳しく指摘している。

そして最後の言及で、ジャーナリズムの使命である「権力監視」という権力への正しい批判ができていないと断言している。

そのような断言が本当であるかどうかは、7月15日から始まっている“森友問題”裁判での報道を見れば一目瞭然である。

新聞各紙はその裁判を“森友”国賠訴訟と報じて、前日もしくは当日に一回だけ苦心して大きく伝えているが、記者クラブの足枷から、「権力監視」という視点では余りにも腰が引け過ぎている。

これが医師2人が筋萎縮性側索硬化症(ALS)女性患者の嘱託殺人では全く異なり、新聞各紙は事件を追求している。

すなわち日々あらゆる関係者含めて徹底取材し、競って真相を追求している。

しかし政府の関与する事件に対しては、横並びで、踏み込んで真相を追求する姿勢が見られない。

例えば朝日新聞では裁判前日の14日朝刊1面で“改ざん「僕がやらされた」”の大見出しで大きく扱っているが、改ざんを強いられ自殺した財務省職員赤城俊夫さんの無念、そして31面“「私はひかない」実名の覚悟“の妻雅子さんの無念を通して真相に迫ろうとしているが、真相に迫る使命からは余りにも腰が引けている。

しかもそれ以後は、27日現在に至るまで殆ど“森友”国賠訴訟記事さえなく、辛うじて16日の社説「“森友”国賠訴訟 政権に良心はあるか」で書いているが、300か所公文書を改ざんした政権に良心を何度問い直しても無駄である。

その点コロナで政権の足枷が弱まっていることもあり、NHKの15日クローズアップ現代+「“森友問題” 裁判はじまる~疑問は明らかになるのか~」は、驚くほど真相に迫ろうとしていた(注1)。

しかしNHKもつい最近まで「政治部の報道は、安倍政権直属機関の報道である」と批判されるまでに変質していたことも確かで、私自身もブログ(206)“NHKは国家放送になるのか”で、番組を検証したほど変質していた。

それがコロナを契機に、公共放送の使命を果たしていると感じられる番組が多々見られるようになった。

しかし「記者クラブ」の重い足枷で縛られた新聞各紙の報道は、逆にコロナを契機に余りにも酷い。

もっともそうした足枷に縛られている記者たちも無念であり、福島原発事故7年後に日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)が行った「3つの原発事故調・元委員長らにインタビュー」では、その無念が滲み出ていた(注2)。

特にそれは国会事故調査委員会の元委員長黒川清(医学博士、東大名誉教授)のインタビューでは、その思いが強く感じられた。

国会事故調査委員会の2012年7月5日提出された報告書では、事故を「人 災」と断言し、その根本的な原因は政・官・財の一体化から生まれた「規制の 虜」にあるとして、国民の命を守ることより“原子力ムラ ”の利益を優先して安 全対策を先送りにしたと明言している。

そして二度と事故を起こさないために、「規制 当局に対する監視」「危機管理態勢の見直し」 「被災住民への対応」「電気事業者の監視」 「新しい規制機関のあり方」「法規制の見直 し」「独立調査委員会の活用」という7項目の提言をした。

しかし7年後、何も変わらない体制、どれ一つ実現されない提言というなかで何も書けない記者たちは、画期的報告書作成を指導した黒川元委員長の意見に期待したのである。

すなわち記者クラブの重い足枷ゆえに、黒川元委員長の意見として書くことで、そのような現状を突破しようとしたのである。

その様な思いは、以下に見るように記者団の最初の質問から滲み出していた。

(記者団の質問)国会事故調の報告書は原発事故の原因 を「規制の虜」とし、人災であると記しま した。こうした指摘は国の政策に反映されたと思いますか。

(黒川)それはジャーナリズムや報道関係者が取り組むべき問題ではないか。国会に頼まれた私の役割は、両院議長に報告書を提出したところで終わりだ。その後の動きを 監視、国民と共有するのは皆さんの役目だろう。・・・

また「権力を監視するのは誰か」という項目で

(記者団)国会による継続監視は法律で縛らない限り、日本ではどうも駄目だろうというお考えのようですが。

(黒川)皆さんはどれくらい知っていますか。 国会議員は、皆さん多くの案件を抱えている。それに対して、どれくらいの能力と理解力があって仕事しているのか。能力のある人もいるが、国民が選挙するときに誰がそれを問うんですか? それはメディアの責任です。ジャーナリズムは、権力に対するウォッチドッグです。そこがあまり機能 していない。それが一番の問題だ。 政府は、何か問題があっても、それは国民が選んだ国会議員の先生が言っていることだからと、必ず霞が関は言い訳をします。 記者クラブなど、メディアをなめているんです。メディアがきちんと伝えないと、有権者にはわからない。 国会事故調では、委員会の議事もすべて公開してきたのに、記者会見では「委員会 の意見は‥」と何回も質問された。記者が 自分で見たとおりに書けばいいのに、無意識のうちに「責任を負いたくない」という 気持ちが働いている。私の口から言わせて、報告としたいわけだ。

 

このように日本のジャーナリズムは権力に対して何も書けず、結果的に権力の代弁者として利用されており、そうした状況で権力側の良心を求めることで変えようと努力していることは理解できるとしても、それでは国民には真相は全く届かないのである。

もっともそのようにさせているのは明治以来の官僚支配であり、そこを崩すことなしには何も変わらない。

それを崩す唯一の術は、このブログ繰り返し述べているように戦後のドイツに学び、司法を国民にガラス張りに開き、行政訴訟を誰もが容易く求めることができる仕組に変え、官僚支配から官僚奉仕に転換して行くことである。

それなしには何も変わらず、唯々壊れゆく日本を傍観するしかないだろう。

 

(注1)https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4442/index.html

NHK7月15日放送『“森友問題” 裁判はじまる~疑問は明らかになるのか~』

 

(注2)https://jastj.jp/valid/valid_06/top/

3人の元事故調委員長インタビューが映像と記事で載せられており、国民一人一人に真相が伝わっていれば、日本も変わったろうにと思えてくる。