ドイツから学ぼう(362)ドイツから学ぶ未来(5)ドイツから見た戦後の日本教育後編・マルクス・ガブリエルの倫理トーク(9)自由の責任、(10)自然破壊

ドイツから見た戦後の日本教育後編

 

 

日本の戦後教育は、私の見た動画57前編の終わりで見るように、財界からのエリート要請に従い、学校が能力主義という競争原理によって序列化されて行き、戦後教育の「国家が教育のために奉仕」する理念が、「教育が国家のために奉仕」する戦前の教育へと実質的に捻じ曲げられて行ったのである。
それは後編初めのフィルムが、全国8000人の教師の調査によれば生徒の半数を置き去りし、落ちこぼれを生み出し、さらに校内暴力やいじめへと発展し、教育の荒廃するさまを物語っている。
こうしたなかで文部省は教育改革を打ち出すが、この教育改革こそはサッチャーレーガンが推し進めた新自由主義にのっとった教育であった。
しかし84年に誕生した中曽根新自由主義政権での臨時教育審議会では、競争原理の追求よりも教育の荒廃が反省され、競争原理追及の手段である多様化、自由化、個性化追及が戦後の理想教育への回帰をもたらし、“生きる力、自ら学び自ら考える”ことを目標とするゆとり教育へと向かったのであった。
そして2002年から実施されたゆとり教育では、教科内容が3割削減されると同時に、各学校の担当教師に委ねられた総合学習が開始された。
しかしそのような理想教育への回帰も、教育予算が縮減されていくだけでなく、教師が創意工夫で生徒と共に創り出して行くには余りにも時間的余裕がなく、総合学習の基礎知識も不足していた。
それでも理想を追い求めるゆえに、根付き始めていた。
しかし理想が根付く先には、理想ゆえに現在の国家に奉仕する教育を崩すことになりかねないことから、例のごとく学力低下があらゆる方面から叫ばれ、再び学力重視の競争教育へと旋回して行った。
しかも日本社会の格差が激化していく中で、6人1人という子供の貧困が進み、ドイツのように母子家庭でも平等な教育チャンスは全くなく、放置されてるといっても過言でない。
安部首相は例のごとく確信を持って、教育の平等なチャンスを与えるべく貧困の連鎖は断ち切って行かなくてはならないと断言するが、まさに官僚答弁のように実現意思のない先送りにしか響いてこない。
事実その断言から5年も経つが、先送りされ益々子供の貧困化が聞こえて来ている。
これに対してドイツは、60年初から始まった教育の民主改革を通して民主化と平等化を求め、60年代末の学生運動の挫折も乗り越え、生徒の自主性を尊重し、競争より連帯を育む事実授業(体験学習)は、内的改革として試行錯誤を経て育ち、80年代末には競争より連帯を育む自由な協力的学習、選抜的でない支援的学習、生徒、教師、親の共同決定を求める学習、世界及び未来という大きな視点に立った学習へと拡がって行った。
しかしこうしたドイツの理想教育は、ドイツ統一を通してアメリカの競争原理優先の新自由主義の激しい洗礼を受けると、内外において厳しい批判に晒された。
しかもドイツの誇る自動車産業が大きく落ち込み、産業界からは国際競争力を高める教育が求められた。
そして2000年代初めのシュレーダー政権は、競争原理を最優先するアジェンダ2010政策で、教育も競争原理を優先し、産業(国益)に奉仕する競争教育へと大転換が求めたのであった。
実際大学までの13年の中等教育が12年に変化し、大部分の州でアビィートゥア試験(大学入学資格試験)が各学校の試験から統一試験となり、大学も有償化が求められて行った。
そしてその先には日本の競争教育のように、大学自身が学生を選抜できるエリート育成の教育が目指されていた。
すなわち大学授業料の有償化については、年間1000ユーロの授業料が2006年からバイエルン州バーデン・ヴュルテンベルク州ザクセン・アンハルト州、ザーランド州、バイエルン州ニーダーザクセン州で始まり、全ての州で有償化に向けて動き出していた。
しかし戦後の理想教育で育った市民は、そのような国益に奉仕する教育への大転換を望まなかった。
2008年ヘッセン州選挙で大学授業料の有償化が問われ、有償化が否定されると、有償化していた全ての他の州でも順次州選挙で否定され、2015年にはドイツの全ての州で大学授業料が再び無料化されたのであった。
確かにドイツの理想を求める教育が,、新自由主義に大きく浸食されたことは事実であるが、そのような理想を求める教育で育った国民ゆえに、国益優先のエリート養成に指針を向けた大学授業料有償化に「ノー」を突きつけたのも事実である。
すなわち産業に奉仕する教育より、社会に奉仕する教育を選んだのである。
そうしたドイツゆえ、2011年の福島原発事故後直ちに国民に開かれた倫理委員会を発足し、核エネルギー賛成派と反対派が徹底した議論を倫理的視点で繰り広げ、2ヵ月後には脱原発再生可能エネルギーへのエネルギー転換を決定したのであった。
すなわち倫理委員会ではフクシマ災害を起こしたことを踏まえ、核エネルギーの絶対的拒否が大災害となる潜在性、未来の世代が背負う負担、放射能汚染による遺伝的疾患の観点から必然的に導かれる決論し、かかる損害事故を起こさない為には、核技術をもはや利用してはならないという決定を下したのである。
この倫理委員会の議論は、全て動画として公表されており、そうした倫理委員会の議論こそが「ドイツから学ぶ未来」でもあることから、追々載せて行きたいと思っている。

 

マルクス・ガブリエの倫理トーク(9)自由

 

 

自由の倫理トークでは、「あなたは市内を時速300キロで走行でき、誰かをひき殺せば自ら責任を取らなければならないでしょう」という、日本人からすれば極めて特異な例を持ち出している。
しかしドイツのアウトバーンでは制限速度がなく、ドイツ車であれば時速300キロも可能であることから、よき例として自由に責任があることをガブリエルは諭している。
すなわち人間は、人の間に生きている存在であり、自由には他者への責任が問われると言えよう。
さらにガブリエルは絶対自由について、人はおとぎの国で1人で生きれば、絶対的自由は得られるとしても、精神の病に侵されるだろうと述べている。
ドイツの自由への責任は、戦後の深い反省に基づく基本法第一条の「人間尊厳の不可侵」に発しており、思想の自由、言論の自由表現の自由が他者の自由や権利を侵害する場合拘束されることを基本法に明記している。
すなわちヒトラーの礼賛やホロコースト否定のような発言は、刑法で処罰されている。
また国連においても世界人権宣言で、「他人の自由や権利を侵害する自由は認められない」
と人間尊厳の不可侵性を世界に誓っている。
しかし私が思うに、現在の新自由主義の世界は、規制なき自由が多発され、市民の権利や自由を奪うだけでなく、途上国の国営事業を民営化し、合法的にその富さえ奪っている。
まさにその自由こそは、リベラルを装ったコロニアリズムの偽装に他ならない。
このような自由な世界では、最早各国の法律による拘束では自由の責任を問うことは不可能であり、ユルゲン・ハーバーマスやウリッヒ・ベック等が唱える世界内政治が必要不可欠である。
「世界リスク社会論」を提唱したウリッヒ・ベックは、グローバルな世界危機への対峙は(グローバルな責任は)、国際的法規を各国の対話を通して創り上げ、世界の全ての国が従う協力体制の構築を協調的に求めている。
そこではベックは、各国は協力体制を構築することで自己決定権を縮減させるが、国家の主権を減らすより、寧ろ国家主権の潜在能力を高めると述べている。
確かにドイツの戦後の理想教育で育まれた理論は、倫理的にも文句のつけようがないほど正当なものであるが、ドイツのようにシステムを通して市民への官僚奉仕があらゆる側面で徹底されている国では機能するだろうが、EUや国連のように官僚委員が国益に奉仕する官僚支配の世界では、産業側のロビー活動で結局は殆ど機能しないであろう。
それ故に、既に何度も述べてきたように、EU、そして国連は戦後のドイツのようにEU市民、そして世界市民に奉仕する世界市民にガラス張りに開かれた官僚委員奉仕を実現していかなくてはならない。

 

マルクス・ガブリエルの倫理トーク(10)自然破壊

 

 

自然破壊の倫理トークは、「私が多くの汚染や化石燃料の過剰消費を見る時、自然の強奪を感ぜざるにはいられません」という神学者でジャーナリストのマデライン・ズペンディア女史の問いかけから始まる。
ガブリエルは「それは倫理的、社会政治的に悲劇的やり方で自然を強奪してきた、見逃せないものです」と同意し、女史の責任論に対しては「勿論次世代への責任があり、私たちが現在営むやり方は、人類が4000年営んできたエコロジーなものとは全く異なっているのは自明です」と真摯に答え、これまでの自然を強奪する社会の慣習を変えていくことで責任を取らなくてはならないと諭している。
その慣習を変えるものは、学校での生物、物理、そして倫理の教育であり、それを通して産業革命以来人類をいかに危険な場所に導いているかを理解することから始まると述べている。
それは、昨年亡くなった哲学者梅原猛の“フクシマ原発事故は文明災”であったという重い言葉を思い出させる。
梅原猛は、過ちが近代文明創設者ともいうべきデカルトの「目の前にある自然は数式に置き換え容易に支配できる」という驕りにあり、人間中心主義の自然支配を改め、自然との共存を訴えていた。
日本は世界唯一の被爆国であり、事故当事国であることからも倫理的に絶対的拒否が打ち出されるべきであるが、原発事故の処理だけでなく、被災者への謝罪と償いは未だに一向に進まず、原発を基本電源と位置付けており、ドイツから見れば恐ろしい大本営国家が今も継続されているとしか言いようがない。
私もしっかり覚えているが、95年の高速増殖炉ナトリウム事故直後ドイツの公共放送ZDFは、他国への政治干渉というリスクを侵して、日本のような地震列島で50もの原発が稼働している危険性を痛烈に批判し、高速増殖炉爆発で日本壊滅のリスクにもかかわらず大きなデモもおきないことに対して、「おとなしく従順な国民は、原発事故も運命だと諦めているのでしょう」と報道しており、その報道が今も耳に残っている。