ドイツから学ぼう(364)ドイツから学ぶ未来(7)終活を考える後編・戦後の障害者福祉後編・ガブリエル倫理トーク(12)お金への求望

終活を考える後編

私が帯状疱疹を発症してから、彼是三週間を過ぎた。
既に一週間前には痛みも和らぎ、発疹は小さく黒くかさぶたとなり、現在では歩くとき腿の付け根が少し痛いことと、寝る時多少痛みを感ずるまでに良くなって来ている。
そして今日、稲の苗づくりで苗箱を田んぼで育成する作業も、娘と一緒にできるまでになって来ている。
もっともこれまでは、歩いて10分ほどの山の麓の田畑に出かけても、作業をするまでには至っておらず、娘の耕した畝に種を蒔いたり、伸びてきた人参、大根、ゴボウ、もろこし等の芽に水をやる程度で、もっぱら口を出していた。
何故なら少し無理をすると痛みと疲れがでることから、農作業や森での薪切りは殆ど娘に頼らざるを得なかった。
娘は学会など忙しい日々が続き、3月後半にはアイヌ文化探索で帰って来たばかりで、既に私が帯状疱疹を発症し、入院も医者にもかからず安静第一に徹したことから、集落の会合から夫役など、全てにおいて苦労かけたように思う。
今回の原因不明の激痛から始まり微熱もあったことから床に臥し、ともすれば不安の日々が続いたが、娘の逞しさを体調を崩し共同生活を始めた1年前に較べて驚くほど、実感できたのも意義があった。
また床に伏して考えるなかで、これまで生きてきたなかでネガティブなことも、森羅万象に生きる縁として、受け取ることができるようになったのも有難いことだと思っている。
まぁー、先はそれほど長くないとしても、今日やりたいことを決して無理せず、日々喜びとして悔いなくやれれば良しと、腹を括れたことは病も私にとって意義あることだった。

 

戦後の障害者福祉後編

 

後編は脳性マヒとして生れながらも、健常者さえ儘ならない「自分の意志で自由に生きる」ことを求め続けている三井絹子さんの闘いから始まる。
より良い福祉を求めた美濃部都政の障害者療育センター開設が、障害者を家庭からも隔離し、三井さんのような病人でない障害者を病人として扱ったことから不満が高まり、支援者の拡がりもあってテント闘争へと発展した。
三井さんは当時を振り返って、「たとえ手足が不自由だろうが、しゃべれなかろうが、みんな人間なんだと叫びたくて坐り込んでいました。・・」と語る。
1年9か月にも及んだテント闘争は、美濃部都知事との和解会談で終結し、センターを障害者の生活に適した場にすることで合意された。
三井さんは、それが社会に障害者にも意思があることを知らしめた点では意義があったと回顧するが、「自分の意志で自由に生きる」ものとは程遠いものであった。
それ故三井さんはその後支援者と結婚し、センターを出て「自分の意志で自由に生きる」道を選んだと、ナレーションは語っている。
しかし三井さんたちの望む「自分の意志で自由に生きる」道、すなわち60年代に北欧で始まった「障碍者が本人の意思に基づいて、施設ではなく地域で他の人と同じように暮らす権利がある」というノーマライゼーションは、日本社会では自ら築くことができなかった。
フィルム中盤で描かれる秋保産夫婦のように、障害者同士が結婚し、並大抵でない努力によって、地域で他の人と同じ暮らしを実践する人は確かにいた。
しかしそれができたのは、1981年の国連の国際障害年の先進国日本への外圧を通して、障害者支援が85年の障害基礎年金制度設立によって倍増されたからである。
また障害者支援による財源が不足するなかで、障害者自立支援法という言葉とは裏腹に、障害者の作業所などで利用料の一割負担で自立を妨げる法律を、跳ね除けることが出来たのも国連の外圧だった。
確かに秋保さんたちの体を張った提訴も大きな力となったことも事実であるが、日本は国連から先進国として、ノーマライゼーションを遵守する障害者権利条約批准を強く求められていたからに他ならない。
そして2014年に日本は障害者権利条約を批准し、今障害者の人たちが施設ではなく、地域で他の人と同じように暮らす権利があるというノーマライゼーションが始まろうとしていると、フィルムは幕を閉じている。
しかしその後の日本社会を見れば明らかなように、障害者福祉をつかさどる政府自体が全く変わっていない。
例えば2018年に発覚した政府27省庁の障害者雇用は、実際とはかけ離れ倍以上に水増しされており、3400人を超える偽装雇用がなされていた。
それは国だけでなく、地方自治体の公務員雇用でも同じであり、意図的になされていたと行っても過言でない。
また162万人の障害のある人の生活基盤である障害基礎年金支払いでは、2017年から2900人もの障害のある人が軽度障害として突然支払いを停止され、2018年には1010人の受給者に停止予告がなされており、障害のある人への支援が障害者権利条約批准とは逆行して、意図的に縮減へと舵を切ろうとしている。
こうした背景には、国を司る官僚たちの無謬神話が戦後もしっかりと生残り、国益最優先の大本営の意思を貫徹するため、事実の改ざんも厭わない恐るべき戦前への回帰を感ぜずにはいられない。
何故なら公文書の改ざんは最早日常茶飯事のように繰り返されているにもかかわらず、調査での民間の介入も仲間内でなされているかのように緩く、過ちが容認されているからだ。
ドイツではそうした過ちが、侵略戦争、さらにはホロコーストを招いたとという反省に立ち、日本が明治に手本とした官僚制度を180度転換させ、行政に携わる官僚は過ちを犯し得る視点にたって、その責任を問うことが求められ、行政訴訟を市民の誰もが容易に行うことが出来るようにし、訴訟の際は行政の資料がすべて裁判所へ提出されている。
それはドイツの官僚支配を官僚奉仕へと変え、日本のように戦前への回帰の兆候は全く見られないだけでなく、道を間違えることはあっても絶えず万人の幸せが追求されている。

 

ガブリエル倫理トーク(12)お金への求望(欲望)

 

今回の問答ではテーマの紹介として、“世界中で衣食住で困窮する無数の人がいるなかで、絶え間なくお金を増やそうとする欲望は正当化できるか?”という問いがなされている。
ガブリエルは、お金への救望には相応しい理由が必要だと述べている。
そしてお金への求望は資本主義特有のものではなく、私有財産を認めない社会主義にもあり、あくまでも倫理的問題だと主張している。
そして弱者支援を掲げ、必要不可欠な衣食住を保証するドイツの社会的市場経済では、お金への救望が適正に機能し、億万長者にも富の再配分の厳しい税が求められ、さらに責務である寄付もなされていると語っている。
ラストの封建領主の例えでは、富の再配分を国のレベル(公的領域)で強化には反対であることが伺える。
すなわち裕福者には社会的責任を求めることで、すなわち私的領域での倫理的解決を説いているように思える。
確かにガブリエルの主張は、衣食住だけでなく、長年無料の教育費や充実した給付奨学金で母子家庭でさえ格差を生み出さないよう配慮するドイツでは、裕福者にも厳しい富の再配分が徹底され、教会などを通して裕福者への寄付の倫理的責務が徹底されている国では正当化されよう。(私の滞在したベルリンでは、近辺の倒産したデパートなどの再開発の財源は全て寄付に因るものだった。また利益を出した企業の市民還元は当り前で、夏にはオペラ座横の大広場で世界的有名な演奏家の野外無料コンサートや野外無料オペラは市民の楽しみとして定着していた)。
もっともそのように出来るのは、ドイツがEUにおいて突出して秀でた国であり、2012年以来債務ゼロだけでなく莫大な黒字を出しても、通貨がギリシャからスペインやイタリアに至る大幅赤字国によって上がらず、益々国際競争力が強くなるからに他ならない。
したがってドイツではお金への求望は正当化されても、世界中の無数の困窮者救済には逆である。
何故ならお金への求望が、富を一握りの人たちに集中するからだ。
その原因はピケティが明らかにしたように、資本収益率⒭が経済成長率⒢よりも遙かに大きいからである。
すなわち裕福者は財の投資で益々富が増すのに対し、財のない市民はワーキングプアに見るように、働けど働けども益々貧しくなっていくのが世界の現実である。
それ故ピケティは、グローバル資産課税や累進課税強化を提言している。
この提言は正論であるが、無国籍巨大企業や世界の億万長者が力関係で公正な税を求める国民国家を遙かに凌ぐ現実のなかでは、タックスヘイブンなどに見るように全く機能しないだけでなく、逆に巧妙化させているのも事実である。
将来的にはそうした課税は不可欠であるが、機能しないのであれば、ドイツのように裕福者に徹底した倫理的責務を求め、ユニセフのような富の再配分を実践する機関や団体への寄付を大幅に増やすことが、現段階では最善のようにも思われる。
そのような視座から見れば、ガブリエルの主張する私的領域での取組も正論であろう。