ドイツから学ぼう(360)ドイツから学ぶ未来(3〉米中覇権のなかでの希望(倫理による世界再構築)・マルクス・ガブリエルの倫理トーク5避難民、6動物実験

米中覇権のなかでの希望(倫理による世界再構築)

1月19日のNHKスペシャルアメリカVS.中国 “未来の覇権争い”が始まった』は、アメリカと中国の貿易摩擦が益々拡大するなかで米中覇権争いを驚くほどリアルに描き出しており、国際政治学者イアン・ブレマーの「今後、世界は、アメリカと中国のハイテク技術によって分断され、グローバリズムが終焉する」との予言が印象的であった。
上の私の見た動画56『米中覇権のなかでの希望』では、そのフィルムが投げかけるものを考えて見た。
それは世界を二つに分断する冷戦構造の再来であり、恐るべきカタストロフィの悪夢の始まりでもある。
しかし私自身は、そのような覇権争いは競争原理を最優先する新自由主義経済が必然的に招くものであり、両陣営が世界の支持を必要とすることから、競争のための規制なきグローバル化の欠陥が浮彫にされ、現在の世界の本質的問題解決の方向性が見えてくると感じている。
もっとも私の感じる希望は確固たる論理的裏付けがあるものではなく、現在のカタストロフィが究極的な技術発展の中で国益追及に益々道具化している人類の愚かさに由来しており、崖っぷちでその愚かさに気づく筈であるといった、人類滅亡1分前からのどんでん返しの願望に他ならない(米科学誌「ブレティン・オブ・アトミック・サイエンス」発表する2019年時点の終末時計は人類滅亡2分前)。
それでも敢えて、私が抱く希望の裏付けを書けば、世界戦争、そしてホロコーストを引き起こしたドイツが、戦後その原動力となった道具的理性を倫理的に克服し、世界で唯一理性ある振舞を実践しているからである。
すなわち戦後のドイツは、憲法を「人間の尊厳は不可侵である」と始まる基本法で厳しく縛り、二度と過ちを繰返さない仕組を創って来た。
そこではナチズムを生み出した官僚支配を深く反省し、司法を法務省から完全に独立させ、無責任な国益最優先の官僚制度の仕組を、官僚一人一人の責任が問える仕組みに変えてて行くことで、必然的に市民奉仕最優先へと転換された(注1)。
すなわち市民からの行政に対する訴えがあれば検証し、事実であれば行政から強制的に資料や証拠書類を提出させ、無料でしかも短期に行政訴訟を決着させる仕組みへと転換し、国民の官僚支配から官僚奉仕へと180度転換させている。 
また言葉だけの国民発案の審議会を、連邦であれ州であれ議会の政党投票率で各党推薦の専門家審議委員の選出で、審議会はガラス張りに開かれるだけでなく、市民も共に学べるものとし、市民が納得できる市民のための政治へと変化して行った。
さらにそのように開かれた市民のための民主政治は、60年代の「競争よりも連帯」を標語とする民主改革で倫理的民主教育を徹底させて行った。(それは徹底した倫理的民主教育で育ったマルクス・ガブリエルをして、ドイツ人は観念論者であると断言させるまでに至っている)。
そうしたなかで60年後半には裁判官さえも市民奉仕が優先され、高座の裁判官を傍聴人と同等の席の高さまで引き下げ、傍聴人と隔てる柵が取り払われ、裁判所自体を市民のサービス機関に変わることが目標とされるほど、司法も国民奉仕とガラス張りに開かれることが求められて行った。
そうした過程を通して、ドイツは倫理的民主国家として道具的理性を克服できたことから、新自由主義の到来に一時的道を誤る時期はあったとしても、直ぐさま立ち直り、世界平和、地球温暖化問題、避難民問題では、先頭に立ってその解決のため行動している。
そのような道具的克服の倫理的叫びは、現在の世界崩壊2分前の世界には隅々まで届いていないが、米中覇権争いが激化する人類滅亡1分前には必ずや届き、戦後のドイツのように世界は立ち上がり、強い倫理的規範に基づく人間を幸せにする世界を創り出すものと期待したい。

(注1)それは一夜に達成されたものではなく、官僚一人ひとりの責任が問えるように権限の現場官僚への委譲が50年代より模索され、権限委譲のハルツブルクモデルとして断行されて行き、1960年の行政裁判所法制定で行政の資料提出が義務付けられたことで官僚の一人ひとりの責任が問えるようになって行った

 

マルクス・ガブリエルの倫理トーク(5)避難民

2015年にドイツが100万人を越えるシリアからの避難民を受け入れ、メルケルの「基本法の庇護権には上限がない。救いの手を差し伸べないなら、私の祖国ではない」との発言は、今も強く私の心に残っている。
避難民問題でドイツ中が激しく、必死に議論し、避難民受入れ拒否の極右的政党AfDが急進した頃(2016年末)の倫理トークである。
「大きな屋敷や大きな住居を持っている各々が幾つかの部屋を提供できれば、その国及び避難民を助けれるでしょうね」というフローリン女史の提案に対して、ガブリエルは「それは一時的な表面的解決に過ぎないでしょう。要は苦しみ、嘆く、個々の人たちの確かな問題が解かれなければならないでしょう」と簡潔に、しかも本質的解決への提起をしている。
また避難民に暴力が振舞われば、それに立ち向かわなくてならないと諭し、自らも暴力に立ち向かうことを表明している。
そのようなガブリエルの絶えず現実の問題にアンガージュマンする姿勢に、私自身は彼が新実在主義の旗手というより、未来の希望とも言うべき、倫理的に再構築された新実存主義の旗手を垣間見るのである。

 

マルクス・ガブリエルの倫理トーク(6)動物実験

 

動物に苦しみを与える動物実験を医薬品開発にさえ認めないガブリエルの発言は、日本では恐ろしく急進的に響いて来る。
しかし2002年基本法に、「自然的な生活基盤及び動物を保護する」という条文を20a条で明記し、「人間と動物の共生」と「人間の動物に対する倫理的責任」を将来の目標に掲げているドイツでは、市民としても当然の発言である。
そしてフローリン女史の「一般的に私たちは、動物の命を余りにも容易く手に入れていませんか」という問題の投げかけに対して、ガブリエルは単に同意するだけでなく、消費行動の転換を訴えている。
すなわち私たちは動物食品をスーパーでその苦痛を見ることなしに、容易に手に入れことができる消費行動を、直ちに変えて行くことを提起している。
そこには現在も尚欲望追及のために、益々道具的理性を拡げている人類の戒めと、「人間の動物に対する倫理的責任」を通して、欲望剥き出しの世界を倫理的に転換させなくてはならないというドイツからのメッセージが感じられる。